歴史人文篇
京杭大運河は南北を貫徹して、長さが1782キロメートルで、2千数年の歴史を持っている。京杭大運河と万里の長城がこもごも照り映えて、世界中に知られている。京杭大運河の工事は春秋の末期に始まった。歴代封建王朝は政治、軍事、経済の考慮に基づいて、絶えず工事を続けた。隋陽帝の時代に3回の大規模な修繕と切り開く工事が完了され、水運の回廊ができた。大運河は中国南北をつなぐ運送大動脈になり、運河を軸にして、四方八方に通じる輸送網ができた。南北の連絡の強化、南北の交流を促進する役割を果たしてきた。多くの有名な町と重要な鎮は運河のおかげで盛んになって、中国の七大古都の4つは運河の岸辺にある。運河の沿線は当時の国内の最も繁栄、豊かな地区であった。
拱墅区は京杭大運河の最南端に位置する。大運河は拱墅の民衆を養育する。拱墅区の発展と変遷は大運河の歴史を反映する。拱墅区の名所旧跡が多くて、水田畈遺跡、半山石塘戦国墓遺跡、拱宸橋、香積寺石塔、高家花園、洋関、珠児潭、富義倉、小河直街、橋西名居、湖墅八景、歓喜永寧橋、祥符橋、半山橋などの文物保護部門と遺跡がある。泥馬渡康王(泥馬が康王を乗せて川を渡った)、康煕乾隆下江南(康煕と乾隆が江南に来られた)などの伝説逸聞も言い伝えられていて、貴重な文化遺産となった。
1997年末から拱墅区は運河文化の基本構想を確立して、1998年の中国共産党拱墅区第3回代表大会で「運河文化風景線の建設」が拱墅区の今後の全区の目標と主要任務の1つと確定された。運河文化は歴史貴重財産で、拱墅区の文化建設の独特な優勢である。運河文化を十分に利用し、運河両岸を建設すべきである。庭園、旅行、建設、商業などの多種の文化を一体化にした運河文化風景線が完成され、拱墅の新しい時代の姿を表す。
運河文化、文化商城、運河文化広場と運河博物館などの重点プロジェクトを頼りにして、「1城(都市)2橋3街4中心」の大文化産業の構造を初歩的に形成し、強力に文化産業を発展する。ここ数年来、拱墅区は拱墅図書館、拱墅区文化体育発展中心、拱墅区体育場、拱墅区体育大廈などの公共文化体育施設を建設した。運河文化景観の重要な歴史遺物――高家花園の修復作業が完了した。いくつかの逸品を育成して、「文化拱墅」のブランドを建設する。
拱墅区は連続数年、大運河文化芸術祭、千年運河竜船の競漕試合、運河広場の歌の会、元宵灯会、運河健走(運河に沿って速く歩くこと)などの特色活動を行った。これらの活動を通して、知らずのうちに民衆を団結し、人心を鼓舞し、影響を拡大することができて、運河文化をテーマとした各類の文芸作品は何度も省市級の賞を受けた。各級各類の文化体育団体を300数個創立して、文化の繁栄を促進した。区・鎮(町内)の文化スポーツ施設は日に日に改善され、12000平方メートルの区の文化体育センター、郷・鎮・町内の文化体育ステーションは大衆の文化・スポーツの展開に保障を提供した。